寄稿

群馬大学脳神経外科開設初期の思い出
貫井英明

1.開設の経緯

群馬大学脳神経外科講座は昭和42年(1967年)6月29日に「行動医学研究施設」の第2部門として開設されました。
当時独立した脳神経外科講座は昭和38年(1963年)に設置された東京大学、京都大学を含め数校しかなく、この時期に旧帝国大学以外に設置されるのは極めて稀なことでした。
何故この時期に後発校である群馬大学に脳神経外科が設置されたのかの正確な理由は解りませんが、昭和27年に東京大学から群馬大学医学部の前身である前橋医科大学の第一外科に赴任して以来、脳神経外科領域の診療、研究に従事して来られた川淵純一先生の熱意が大学首脳部を動かし、脳神経外科開設の要請に向かわせたことは間違いありません。
その際、先発校と同様の医学部臨床講座としての認可は難しいと考え、昭和40年(1965年)に設立されていた「行動医学研究施設」の一部門としての設置を要請し、同じように付属施設の部門として要請していた東北大学と共に設置が認められたものです。

2.開設初期のスタッフと教室の雰囲気

講座開設当初の構成員は川淵教授を始め、第一外科から移籍した武田文和、半田一郎,河野徳雄及び外部から参加した角田忠生の諸先輩と新人の熊谷紀元、貫井英明の7人で、開設直後にアメリカ留学から帰国した狩野忠雄先生が加わりました。
上記のようなメンバーで脳神経外科の活動が始まったのですが、川淵先生を先頭に教室員全員が明るく活気があり、世界に誇れる脳神経外科を作り上げるという意気込みで仕事に取り組みました。

実際には脳神経外科を始め臨床経験の豊富な先輩たちが協力し合いながら教室運営を行っており、同じ志を持ってはいるものの青医連運動のため医師免許を持たず脳神経外科の臨床経験もほとんどない新人2人は戸惑うばかりでした。
しかし先輩達の丁寧な指導の下で懸命に努力して診療に従事し、一か月後には単独で当直を任されるようになりましたが、医師免許を持たずこの様な活動が出来たのは青医連運動が引き起こした特殊な状況であったためだと思います。

診療は病棟医長の武田、河野両先生、外来医長の半田先生を中心に本多婦長を始めとする脳神経外科担当看護婦さんと一体となって開始されましたが、診療開始当日から活動できたのは開設1か月前に脳神経外科助手に任命されていた武田先生が川淵先生と相談しながら病棟、外来、教授室、医局の整備を全力で行ったためであることを後に知りました。
当時は交通事故が多発しており、診療開始直後から頭部外傷の急患対応に追われ忙しい毎日を送ることになりましたが、教室には常に和気あいあいとした雰囲気があり、昼食時には医局に集まり川淵先生も一緒に病院前の食堂から出前を取って談笑しながら食事をとり、暇を見つけては連れだって夜の町に出かけていました。

忙しく働いている内に6月には精神科から八木久男先生が加わり、8月には東京大学からスエーデンに留学していた相羽正先生が帰国して助教授に着任しました。
開設翌年の昭和43年(1968年)にはインターン制度が廃止された影響で昭和42年卒の岡田慶一、佐々木亮三、長屋孝雄,鳴瀬脩の4人と43年卒の今井周治、卯木次郎、深町彰の3人が自主研修という名目で加わりました。
これら7人は熊谷、貫井と同様に青医連運動のため医師免許を持っておらず、更に医局制度廃止、大学院ボイコット、専門医制度反対等の主張のもと自主研修生として脳神経外科に参加したものです。

これらの自主研修生は時には青医連運動の趣旨に沿った主張をすることがあり、武田先生から医局長を引き継いだ狩野先生は対応に苦慮したようですが、それ以外は他の教室員と全く変わることなく指導を受け、診療に従事していました。
昭和44年(1969年)も同じ理由で田中壮佶、田村勝の2名が自主研修生として加わりましたが、昭和45年(1970年)には青医連運動が収束し、上記9名とその年の卒業生である磯部逸夫、柴崎尚、宮崎瑞穂の3名及び第一外科から井上和男先生が正式に教室員になりました。

この様に毎年構成員が増えて益々活気ある教室になって行きましたが、和気あいあいとした雰囲気はずっと続きました。
とは言ってもただ緊張感なく過ごしていたわけでは無く、日常診療を通じ、また回診やカンファランスに際して厳しい指導をうけました。
川淵先生は余り教室員を叱責することはありませんでしたが、常に「患者の身になって考えなさい。何が患者さんにとって最良の治療法であるかを考え治療に当たりなさい」、「経験した症例を徹底的に分析して次の患者さんの治療に生かすことが重要です」と指導し、その上で「誰にも負けない脳神経外科医になれ」と教室員を奨励されました。
この様な川淵先生の指導によって臨床医としての基本的な心構えと専門家として向上心を忘れてはならないという認識が教室員に深く刻み込まれたと思います。

相羽先生は「臨床医学と言えども科学的思考をすべきであり、経験差は知識によって超えることが出来る。知識はすべての基礎である」との考え方の基で若い教室員を厳しく指導されました。
相羽先生の余りにも激しい指導のため、若い教室員は相羽先生に親しく接することが出来ない雰囲気でしたが、相羽先生の指導方針を理解していた開設期のスタッフは一緒に食事をしたり、時には雀卓を囲んだりと遠慮のない、気安い雰囲気で接していました。

親しく接することが出来ないと言っても、この相羽先生の指導と川淵先生の教えを受け、若い教室員はそれに応えるべく懸命に勉強しました。
当時は脳神経外科に関する纏まった日本語の教科書がなかったため、KahnのCorrelative NeurosurgeryやMatsonのNeurosurgery of Infant and Childhood, KempeのOperative Neurosurgery 等外国の教科書を一生懸命読んだものでした。
更にレントゲンカンファランスでの相羽先生の厳しい質問に答えるため、Krayenbuhl and YasargilのCerebral AngiographyやTaveras and WoodのDiagnostic Neuroradiology を読んで質問に対応していました。

この様な雰囲気の中で教室員は勉強を続け活動していましたが、県内外の病院で脳神経外科新設の動きが活発化し、昭和46年(1971年)には半田先生、狩野先生が国立高崎病院および前橋赤十字病院に、昭和48年(1973年)には河野先生、角田先生が桐生厚生病院、熊谷総合病院に各々部長として赴任し、更に相羽先生が虎の門病院に移られて、群馬大学脳神経外科の開設期を支え、教室の基礎を築かれた先生方が教室を離れられ教室創成の第一期が終わったと思います。

3.開設当時の診断法、手術法と研究の様子

開設当時はCTもMRIもない時代でしたから脳血管撮影が最も重要な診断法であり、カンファランスではもっぱら脳血管撮影所見が検討されました。
当時の血管撮影は局所麻酔下で頸部の動脈を直接穿刺して、手動で造影剤を注入するものであり、頸動脈撮影は時には苦労することもありましたが通常は困難なく施行することが出来ました。

しかし椎骨動脈撮影は椎体に針を当てながら少しずつずらして椎骨動脈を穿刺するという方法で非常に難しく、施行するのは名人芸でした。
局所麻酔下とは言え痛みと造影剤注入による激しい灼熱感を伴う血管撮影は疾患診断に必須でしたが、患者さんにとって大変な苦痛を与える方法でありますので、何とかより負担の少ない方法はないものかと思っていました。
長い時間が掛かりましたがCTアンギオグラフィーやMRAの出現により患者さんが苦痛を感じることなく診断が可能になったことは患者さんにとっても医師にとても大変な朗報でした。
更に患者さんの負担が大きかったのは、腰椎穿刺をして髄液を空気で置換して行う気脳写でしたが幸いCT導入後は行う必要がなくなりホッとしたものです。

手術に関しても現在の状況からは想像出来ないことが多くありました。
例えば、開頭に際しては手回しドリルで数か所穴を開けてその間に糸鋸を通し、それを両手で引っ張って頭蓋骨を切断していましたし、脳を圧排するのは手術助手の仕事でした。
当時は肉眼手術の時代でしたので、助手が術野を見ることは難しいため、術者の指令に従って脳ベラを所定の位置に固定するのですが、長い時間の間にどうしても脳ベラの位置がずれてその度に不動の姿勢で固定せよと叱責されました。
この様な状況下で手術の助手を務めていましたが、術後は術中図付きの手術記事を書くことを義務付けられていましたので、前もって手術書を読み、隙を見て術野を覗きこみ、術者の言動をしっかりと観察し、見学していた先輩に助言を求め、想像を働かせて手術記事を完成させていました。
手術記事を提出しますと術者が誤りを訂正してくれますので、それを読んで手術手順や注意点をもう一度確認することが出来ました。

また当時は川淵先生が脳腫瘍、相羽先生が脳血管障害、武田先生が下垂体腫瘍の手術を行っており、教室員は外傷以外の手術を術者として行う機会がなかったため、多くの教室員が将来に備えて手術を見学していました。
この様な手術記事の作成と手術見学時に間近で見た術者の言動の観察は、後年術者に成った時に大変役立ちました。
研究に関しては開講当初に病理学は武田先生、生化学は狩野先生,外傷は半田先生が研究責任者になり、生理学は相羽先生が着任後に担当することになりました。

しかし当時は臨床経験を積む必要のある教室員が多く、研究室に出向いて実験をする教室員はほとんどいませんでした。
その代わりに実際に経験した症例に関する病態の解明や治療成績改善の検討等の研究が行われていました。
その後十分な臨床経験を積んだ教室員が増えたため、研究室を使用しての実験や基礎教室に出向いての研究が行われるようになりました。

4.教室創成期以降の状況

昭和48年に相羽先生を始め多くの先輩が大学を去った後は、同年に助教授に就任した武田先生、昭和45年に講師として着任されていた大江先生及び昭和49年(1974年)に講師に任命された貫井が川淵先生の指導・監督の下で、創成期に培われた伝統を引き継いで教室運営を担うことになりました。
この時期に成りますと講座創成期に指導を受けた教室員が臨床に研究に活躍するようになり、数多くの研究発表が行われ、合格率60%とされていた難関の専門医試験を受験した教室員は全員が合格する等、ますます活気のある教室になりました。その結果毎年の様に教室員が増え、昭和48年までの24人を含め、開設から昭和56年(1981年)までの14年間に66名が教室に加わりました。

昭和50年(1975年)には武田先生が埼玉県立がんセンターに赴任されることになり、大江先生が助教授に昇任されました。
武田先生はその後埼玉県立がんセンターの総長に就任されるのですが、同時にがん疼痛緩和療法の日本に於ける第一人者として国内外で活躍され、その功績を称えて「武田文和賞」が日本緩和医療薬学会に設けられています。
また昭和54年(1979年)には川淵先生の並々ならぬご尽力により、貫井が新設される山梨医科大学脳神経外科の教授に内定しました。
ただ実際の赴任は5年後と言う事で、貫井はそのまま講師として教室での活動を続けました。
更にこの時期には群馬県内を始め信州、埼玉の公立病院から脳神経外科設置の要請があり、多くの教室員が責任者及び構成員として赴任しました。

この様に活発な臨床・研究・学会運動を続けていましたところ、川淵先生が昭和51年(1976年)の第35回日本脳神経外科学会総会及び第35回日本脳定位手術研究会の会長に指名され、同学会・研究会が前橋で開催されることになりました。
当時は現在あるような疾患別の研究会・学会はほとんどなく、脳神経外科学会は唯一の総合的学会で、それ以前に川淵先生が会長で開催した第1回小児脳神経外科研究会(昭和48年)や第4回脳卒中の外科研究会(昭和50年)とは規模が違い、その存在意義は現在では想像できないほど大きい学会でした。
そのため川淵先生の学会成功に掛ける意気込みは強く、それを受けて教室員は全力を挙げて準備に奔走し、学会開催中は演題発表や関連行事が円滑に支障なく行われるように各係が緊密に連携を取りながら運営した結果、何のトラブルもなく無事終了することが出来ました。
学会終了後の慰労会で学会を支えたスタッフを前に、川淵先生が涙を浮かべながら感謝の気持ちを伝えられたのは印象的でした。

川淵先生は教室の運営だけでなく、昭和49年から昭和51年まで病院長を、昭和53年(1978年)から昭和57年(1982年)まで医学部長を務められ、群馬大学医学部の発展にも貢献されました。
しかし教室運営と医学部運営に精力的に取り組まれていた先生が昭和57年2月9日に学会出張中で宿泊していたホテルの火災で亡くなられるという大変な事態が起こりました。
宿泊中のホテルが火事だという一報を受け、創設以来の最古参教室員であった貫井はご家族と共に現地に行って情報収集に努めました結果、残念ながら亡くなられていたことが解り、ご遺体を確認し、自宅にお運びしました。
教室の中心を亡くした教室員の深い嘆き、悲しみの中で、貫井は心を励まし、悲嘆にくれるご家族を励ましつつ亡くなった後の手続きや医学部葬の準備を行いました。
この様に群馬大学脳神経外科の第一期は思いも掛けない悲しい形で終わり、貫井は大江助教授が第2代教授に選出されるのを見届けて山梨医科大学に赴任しました。

5.終わりに

この文章は群馬大学脳神経外科開講当初の状況を知って戴くことを目的に書き始めましたが、記述している内に川淵先生が教室を主催されていた時期全体を振り返る気持ちが起こり、教室創成が終わったと思われる昭和48年以降の出来事を追加しました。
何分50年以上前の事柄ですので、記憶違い、思い込み違いや不十分な部分があると思いますが、ご容赦いただければ幸いです。

2025年1月 貫井英明

 

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